児島宮の歴史

 


児島宮は後鳥羽上皇の子息、頼任親王が、児島宮とされた事に、なづけ、されています。頼任親王の子息、東寺長者道乗(関白藤原良実家入る)内室は、上沢家長(『中原家長』『中條右馬允家長』 の女で、頼宴僧正を生まれ、内室は、児島範長と室、紀家広女、の女で、児島高徳を生まれ、

養父・和田(児島)備後守範長官位に因む通称である。『太平記』

 

上乗院道乗 後鳥羽院皇子頼仁親王の子

そして三男頼仁親王備前児島尊瀧院へ。

頼仁親王の実子、道乗大僧正を後継とされました。

道乗大僧正→頼宴大僧正→高徳(夏后宮家)→

頼仁親王 道乗(上乗院。東寺一長者。 1255 道乗、東寺長者に補さる(東補・仁記) 

東寺長者補任。前大佾正逍荣。文永十年十二 3 道乘前大佾正。上乗院。 

頼仁親王 道乗(上乗院。東寺一長者。建保3(1215)年生。文永10(1273)年12月11日入滅)


「日本第一熊野神社 十二社権現

祭神熊野牟須美神(伊弉冉大神)、泉津事解之男神、速玉之男神、伊奘諾大神、家津御美子大神 (素戔鳴尊)、天照大神、忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命)、瓊瓊杵尊(天津日高日子火瓊瓊杵命)、彦火火出見尊(天津日高日子穂穂手見命)、鵜草葺不合尊(天津日高波限建鵜草葺不合命)、軻遇突智尊、波邇夜須毘賣神(埴山姫尊)、罔象女尊、稚産霊尊、八百萬神

太平記全四十巻の作者が小島法師と云われる児島高徳である。

「天勾践を空しうするなかれ」は(夏后宮家)の歌である。

第四皇子冷泉宮頼仁親王が 児島に配流されました 。

冷泉宮頼仁親王は1247(宝治元)年4月12日に 薨去され、桜井宮覚仁親王は1263(弘長3)年3月28日に薨去された。

「五流尊滝院世系譜」によると、この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、 その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。

中条氏は越後和田氏の嫡流である。祖は小野姓中条氏の系で、鎌倉御家人中条義勝(法橋成尋)の次男家長。中条藤次家長(中条家長


児島高徳の子孫は、この東広瀬城を居城として佐久間氏、三宅氏と称した
三河 東広瀬城を築城したのは、築城者: 児島高徳
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/higasihirose.htm
東広瀬城は、伝承では興国3年に児島高徳によって築かれたと云われている。
天正18年、三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5,000石を領して移封(後に三河田原12,000石)して、東広瀬城は廃城となった。

西広瀬城は、築城者 :児島高徳 歴代城主が、祖、高光で、児島宮に至る。

信長家老佐久間信盛、の名が、見え弟(佐久間全孝) が宝刀村正を所持していた。 古来より宝刀は忠罰に用いられ、王家に伝来する。

児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー佐久間助安 の時従三位になり、天皇側近となり、宮家と呼ばれていた。

佐久間と名乗ったのは、甚九郎助安が、佐久間孫九郎とあり、熱田宮司から、推挙され、近衛中将助安と改めた。ー佐久間甚九郎朝次弥平次ー佐久間甚九郎信晴ー佐久間甚九郎佐久間信盛ー佐久間甚九郎正勝不干斎ーから、筑前夜須篠隈に移り、遠祖、ウガヤに因み平山となる。寛延二年の棟札には、平山大明神と坂野明神、南無天満大天神、とある。

ー甚九郎正成ー甚九郎岩蔵ー甚九郎弥蔵ー甚九郎弥平ー甚九郎喜平ー甚九郎儀平ー甚九郎文八ー甚九郎某 


児島宮由来

児島宮地篠隈535.536は、天皇御領地(奏言)前田(御酒)とあり、京都柴野大徳寺から移転、は平山甚九郎正成の時、慶長三年と有り、社殿を創建、している。

家紋は十六葉菊紋で、平山紋は、古代中国文字の春秋の越王勾践時の違い山文字を伝える。

福岡黒田藩、長政公が、大膳に、家臣の栗山大膳ひきいる家臣団の待合に、された場所が、大膳松と名付けられている。
児島宮宝物(中央公論社)には、長政公献納の黒田御用絵師の作品が伝わっている。

 

 

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